旬のはなし

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壬生義士伝

壬生義士伝、小説と映画を読んだ


自分が悩んでいることと吉村貫一郎の直面したものとを重ね合わせてしまい、泣きそうになりながら読んでいた。
一番泣けたのは嘉一郎の最後の独白のシーンだ。(通勤中のバスの中だったからグッと堪えたが。)こんなに愛おしく虚しい気持ちになったことはほとんどなかった。

映画は圧縮されてしまってイマイチだった。上下巻になっているものを二時間の映像に縮めてしまうのは無理があった。あの小説の描き方だからこそ吉村貫一郎の独白に大きな意味があったけど、映画の長いシーンはいただけない。中井貴一の無駄遣いとも思える。

小説から読んで、見たかったら映画を観ることを勧めたい。


さて、二週間近くずっとグルグルしているので、書き出してしまいたい。

貫一郎は「武士」であったと色々な登場人物に言われている。
この小説で出てくる語り手のほとんどは、元南部藩士か元新撰組隊士である。つまり、この小説の語り手は「武士」からの目線がほとんどなのだ。そんな武士だった彼らに「武士」と評されるのは素晴らしいことであるし、彼こそ「武士」に相応しくなかったら生き延びて欲しいと皆から思われるのは、とても素晴らしいと思う。

武士ではない目線から語っていたのは、千秋、佐助くらいだと思う。(うる覚えだが)
そして、貫一郎の独白をみると、驚くほど「武士らしくない」、と僕は思った。死にたくない、家族に会いたいとばかり考え、迷惑がかかるとわかっていながら南部藩の邸宅に逃げ込んでくる。

この作品で描かれた「吉村貫一郎」はほとんどが創作である。本物の吉村貫一郎はここまで貧困にあえいでなかったようだし、年齢も違うし妻子の有無もわからない。作品上重要な役回りの大野次郎右衛門も架空の人物だ。
でも、この創作の吉村貫一郎は武士でありたかったのか、父親でありたかったのか、どちらなのだろうか。僕はずっと考えてしまう。


父親でありたかったのなら、鳥羽伏見の戦いの前に逃げればよかった。御一新まで潜めていれば、家族に会えたかもしれない。
武士でいたかったのなら、潔く切腹するか、討ち死にするか、闘い続ければよかった。


彼は矛盾の塊だった。
武士でありながら、家族を主君とし
生きるために、人を殺し
故郷を捨てたのに、故郷に愛を持ち
武士に未来がないことを悟りつつ、武士であり続けた。

僕は彼の様に生きたい。矛盾に押しつぶされず、無念の死であっても人生でたぶん一番大切なものを彼は選び続けて、歪んでもそれでも真っ直ぐだった。

けれど、彼は幸せな人生だったのかは、それはわからない。

僕は天命を待つべきなのか、道を選ぶべきなのか。
そろそろ自分の欲とベクトルで、何かを選び、何かを捨てる覚悟を持つ必要があるのかもしれない。